2010年08月20日

No.783 『臨機応変の才について』

   たいていの若者にとって、教育は総じて辛い過程であろうが、中でも正しい社会的品行を教えこむ公民の教科は、最も苦痛が大きい部門であろう。 私は時折公園で遊んでいる子供たちのそばを通りかかって、「お母さん、あの変なおじいさんはだれ?」とはっきり叫ぶ彼らの大きい声を聞きつけるが、必ずそれに続いて「しーッ、黙って!」という怯えた押し殺した声がやって来る。 そこで子供たちは何か少々具合の悪いことを言ったらしいと内々気がつくが、しかし一体何が間違っているのかの点は、まったく見当がつかない。 どんな子供もあまり好きでない贈物をもらうが、両親は彼らに贈物をもらえば、必ずうれしそうな顔をするようにと教える。 子供たちは一方で、けっして嘘を言ってはいけないとも教えられるから、そこに道徳的困惑が生ずる。 われわれは成人するにつれ、応変と誠実の二つの徳目を厳格に区分画定して、そのつど機会に応じてどちらかを用いるか決める仕儀となる。 応変の才と偽善の才の境界はきわめて狭い。 この両者の違いは、その動機にあると私は思う。 相手を喜ばせようとするわれわれの気持ちが親切心にもとづく場合は、われわれの応変の才は正しいに反し、それが相手を怒らせまいとする不安、もしくは阿諛などにより何らかの利益を得んとする魂胆にもとづくならば、われわれの如才なさは多少うさん臭くなる。 他人との困難な交渉に慣れている人間は、相手の虚栄心や各種の偏見へのいたわりが習い性となるが、それは誠実さの第一の徳と考える者には限りなく不愉快であろう。 極度に誠実さを重視する人々は、常にこうした如才なさへの憎悪を表明してきた。 ゲーテに会うためにワイマールを訪れたベートーベンは、大詩人が宮廷で馬鹿者連中を相手に恭しく振舞っているのを見て、我慢がならなかった。 私自身も、いかなる場合でも誠実さを貫いてけっして嘘をつかなかった人々を知っている。 彼らの純粋さが好感を持たれ、それゆえに他の人々の場合なら不作法と考えられたにちがいない挙動も、彼らに限ってはまったく不快を与えなかった事実を私は知って、彼らの手前自分の儀礼的慣行を内心恥ずかしく思った。 にもかかわらず私は、彼らを模倣する気にならなかった。 しかし常に誠実でありたいと考える人間は、怨恨や羨望、悪意や邪推などの感情を免れていなければならない。 われわれは大部分の者がこれらの悪徳の要素を備えており、人に不快を与えないためには臨機応変たらざるをえない。 われわれが皆聖人であるはずはない。 したがって聖人の徳行が不可能であるならば、せめてわれわれはあまり人に不快を与えぬように努めるべきであろう。 
B.Russell 『人生についての断章』 (部分抜粋) 転用者は必ず原典を確認のこと!





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posted by Vigorous at 23:31| 教育、心理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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