2010年07月04日

No.740 『これからの民主主義』

   ヒントになるのが、 「沖縄の少女」 と 「キリスト」 の事例である。 彼らが、普遍的な公共性の触媒となりえたのはなぜだろうか? 彼らは、共同体の秩序の中に内在的な位置づけをもたない、排除された特異点であった。 たとえば、沖縄の少女の場合を考えてみよう。 第一に、女性への暴力が基地問題として公認されてはこなかった (排除) 。 第二に、レイプは、他者からの同情や理解を徹底的に拒む、個人の内的な核への冒涜である (特異性) 。 盗賊たちと交じって、苦しみと悩みのうちに殺された惨めなキリストの姿もまた、共同体の秩序から排除された特異点を表現している。 このような排除された特異点だけが、 「無としての他者」 を直接的に具体化することができる。 普遍的な公共性は、人々が、排除された特異点と関係し、これと同一化することで果たされる。 
  こうしたことが考察するのは、逆説的な形式の民主主義である。 一般には、民主主義とは、多様な利害のある種の集計であり、それらの間の 「平均」 や 「妥協点」 を見出す意志決定の方法であると考えられている。 つまり、そうした 「平均」 や 「妥協点」 を、全成員の意志の普遍化された代表と見なす方法が民主主義である。 それに対して、以上の考察が示唆するのは、これとはまったく逆の、いわば反転した民主主義である。 すなわち、制度化された社会秩序の中で位置づけをもたず、公認の誰の意思をも直接的には代表しない排除された他者を、普遍的な解放性を有する社会の全体性と妥協なく同一視してしまうこと、これが、以上の考察から暗示される、来るべき民主主義の基本的な構想である。 これは、すべての意思の平均的な集計という、通常の意味での民主主義のまったくの否定である。 今日における最大の社会問題、地球環境問題に即して、開放性のよりどころとなる、 「排除された他者」 とは何か。 それは、たとえば、 「第三世界」 の貧民や農民だろう。 さらに、何よりも、それは、声なき未来世代、来るべき他者ではないか。 未だ生まれざる他者の要求を、社会の全体性代表する普遍的な意思と見なすこと、これが、エコロジカルな破局へ対抗する民主主義だ。 
大澤真幸 『逆接の民主主義』





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posted by Vigorous at 18:39| 社会学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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