2010年05月27日

No.706 『普遍性に対する不信と懐疑』

   優れた 「表現=作品」 を作り出した者は、優れた人間として評価される。 それが 「表現」 の世界における一般的信憑である。 しかしこの世界に踏み入ったものは誰でも、きわめてしばしば、優れた作品の制作者がつねに優れた人間とはかぎらず、まれに優れた人間性、心意、意図が必ずしも優れた作品を生み出すとはかぎらない、ということを経験する。 この経験は、人に作品と創作の行為 (その人間) との間の本質的な 「偶然性」 を意識させる。 作品の良し悪しを決定するのは、実は人間の内的価値ではなく、さまざまな不定要素 (天賦の才、時勢、運、その他) ではないか、という偶然性の感覚は、文化や芸術の世界といえども結局はこの世の 「サクセスゲーム」 の一つにすぎない、という不信を絶えず生じさせる。 わたしはこれを、表現価値の普遍性に対する不信および懐疑、と呼んでおきたい。 ある作品に強い感銘を受けるとき、人は、 「真善美」 の秩序が確かに存在しているということを、自然に受け入れている。 「事そのものゲーム」 は、この人間的価値についての表現ゲームだ。 しかしまた、 「事そのものゲーム」 には、評価の偶然性から生じる、 「普遍性に対する不信と懐疑」 がつきまとっている。 これが第一の困難である。 もう一つの困難は、誠実な意識の 「相互的な欺瞞」 と呼ばれる。 
  「ほんもの」 をめがける 「誠実」 なはずの意識が、じつは 「自己価値」 を得るためという自己動機に強く支配されている、という事態として現れる。 そこで、自己動機でしかないものを普遍的であると主張したり、相手のなしたことの普遍性の側面を 「個人的な動機」 でしかないと批判したりできるわけだ。 社会が 「サクセスゲーム」 の論理に強く支配されているほど、作品 (営み) の価値についての正統な批評は後退し、それがどれほど 「売れるか」 という一般的評価基準が前面に現れる。 
  「個別性」 と 「普遍性」 、個人的なものと社会的なものとの分裂は、現代社会では表現の普遍性を本質とする 「事そのものゲーム」 が、結局世上の一般価値の競い合いとしての 「サクセスゲーム」 に吸収され、このことで、人々の 「ほんとう」 の普遍性への信憑が揺らぎ、脅かされるという局面で深刻なものとなる。 
  ヘーゲルはこの困難を詳しく描いてきた。 まず、 「事そのものゲーム」 の 「評価の偶然性」 ということ。 つぎに、 「個別性」 と 「普遍性」 の対立。 
  「事そのものゲーム」こそ、各人の 「精神の本質」 が発現する本来の場所であり、あるいはむしろ、このような事そのものゲームのありようそれ自身が、 「精神の本質」 それ自体に他ならない。 そうヘーゲルは言っている。 
竹田青嗣 『人間の未来』





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posted by Vigorous at 21:53| 教育、心理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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