2010年05月24日

No.704 『ゲゼルシャフトとゲマインシャフトの逆説性』

   公共圏あるいはゲゼルシャフトの関係を構成しているのは 「契約」 である。 加入儀礼において、人は、公共的空間のルールに従うことに同意する文書への署名や宣誓を求められる。 このようなことが要求されるということは、それが、自由な選択に委ねられるということである。 言い換えれば、原理的には、同意しないことも可能だったはずだ。 しかし、加入儀礼において、宣誓や署名を拒否したらどうなるだろうか? 儀礼は大混乱に陥るであろう。 なぜこうなるのか? 加入儀礼の参加者は、最初から 「すでに選択を済ませた者」 として扱われているからである。 確かにそこには自由な選択があるのだが、その選択は、 「すでに終っている」 (先験性を帯びている) のである。 (中略)
  愛は、定義上、自由である (強制されていてれば、愛とはいえない) 。 だが、他方で、愛において、選択の自由が明示的に行使されれば、それこそ、愛の否定にのように見える (デパートでネクタイを選ぶように、あれこれと愛する相手を選んでいたら、それは愛ではない) 。 そのような行使された選択は、愛の関係を、ゲゼルシャフト的な約束や契約の方向へと転化させてしまうからである。 愛の不思議なことは、それはまぎれもなく自由な選択の所産でありながら、常に、気が付いたときには終っている、ということである。 愛の自由は、先経的選択としてしか行使されない。 こうした公共圏 (ゲゼルシャフト) と交響圏 (ゲマインシャフト) は、その極限において交錯することがわかる。 二つの類型の中間において、どちらかに所属するか曖昧な社会や関係の列が見出されるというのではない。 そうではなく、それぞれの純粋型においてこそ、両者は混交するのである。 
大澤真幸 『逆接の民主主義』





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posted by Vigorous at 20:51| 社会学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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