2010年05月03日

No.688 『人間を分類する流儀』

   私見ではわれわれにとって最も不愉快な人種は、相手を見境なく分類して、分かり切ったレッテルを貼る人々である。 この不幸な習性の持主は、自分が相手に適当と考えられる付箋を貼り付けた時に、その対象たる人間についての完全な知識が得られたと空想する。 私は普通これを女性に多い悪徳と信ずるが、とりわけ多数の客人に相手を勤める婦人には、この傾向が顕著である。 客をもてなす女主人の役目は、多くの女性がこの役割に失敗することを見ても、決して平易でないことが分かる。 ある相手には「音楽好き」の、もう一人の相手には「文学好き」の、そしてもう一人には「犬好き」のレッテルが貼られ、その結果同じレッテルを貼られた人は、同類の人に会って楽しい会話を交わすという期待が持たれるわけだ。 しかしこの種の分類をする側と分類される当人の感情の間には、根本的対立がある。 自分が特定の一つの形容詞で要約された人は、誰でも自分の人格がそれほど単純化されたことの不快感を自動的に経験する。 たとえば女主人が私に向かって「ああ、ラッセルさん、あなたは大層御本がお好きですね」と言おうものならば、「いや奥さん、もっと金がもうかる機会があったならば、私は本なんか読みませんね」と答えたい気がする。 我々には、自分が分類などに甘んじない高等な人間だという自負がある。 ある人間を「ロマンチック」だとか、「現代流」だとか「科学的」だというように一つの形容詞できちんと分類しうるという想定は、そもそも最初から失礼である。 当人は個人としての深みを持つのに、自分以外の人間は皆簡単に理解されうるなどという可能性は、統計学上ほとんど絶無である。 それは世界を実際あるがままの興味深いものとしては見ない。 歴史研究や友情や愛情に関する最も貴重な成果は、自分に似ない他の個性の理解へと一歩一歩手探りに接近することである。 これは、他人を分類する作業によっても、また多くの人が信ずるような直観の機能によっても達成が不可能である。 両者の結合がぜひ必要であり、単独では不十分である。 何よりも必要なことは、根拠のない軽蔑に発する唯我独尊を放棄することに他ならない。 
B.Russell 『人生についての断章』 (部分抜粋) 転用者は必ず原典を確認のこと!





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posted by Vigorous at 18:44| 指導者、政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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