2010年04月10日

No.674 『六次の隔たり』

   「六次の隔たり」 とは、次のような現象を指す。 今、多数の人間からなる集合を考えてみる。 その中で任意の二人を取り出し、一方の人物からスタートして、友人の、そのまた友人の......という方法で関係を辿り、他方の人物へと何段階で到達できるかを数えてみるのだ。 この段階が、隔たりの次数である。 すると、驚いたことに、アメリカのような何億人もの人口を抱える集団であっても、平均して、六次しか離れていないのだ。 自分とはまったく縁もゆかりもないと思っているような他人であっても、たいてい、六人くらい友人を辿っていけば、その人に到達できるということになる。 これは、われわれの実感とはかけ離れている。 何億人も人がいれば、われわれは、そのほとんどをまったくの自分とは疎遠な他人と感じているからだ。 しかし、 「六次の隔たり」 は事実であって、1960年代に心理学のスタンレー・ミルグラムによって、実験的に確認されていることである。 (中略) 
  われわれが、この世界は、小さな嶋宇宙のような共同体に分かれている、というイメージを持つとき念頭にあるのは、隔たりの次数の高いケースである。 モデルをどのように考えればよいのか。 各点が直近の点とだけ規則的に繋がっているケースから始めて、ワッツとストロガッツは、ここに、ほんのわずか、ランダムな線を入れてみた。 ランダムな線なのだから、どの点とどの点を繋いでもかまわない。 つまり、近くの点同士である必要はない。 すると驚いたことに、ランダムな線をほんのわずかに入れただけで、隔たりの次数は劇的に下がるのである。 (中略) 
  共同体と共同体を繋ぐランダムな線こそが、徹底した民主主義にとっての鍵である。 そのランダムな線に対応する現実の実践を、われわれは、すでに、いくつか見出すことができる。 一つは、松本サリン事件の被害者河野義行氏の実践である。 一時は、犯人とまで疑われた河野氏は、最大の被害者の一人である。 にもかかわらず、河野氏は、オウム信者と直接に会い、交流わもっている。 河野氏の実践は、 「ランダムな線」 が、最も困難なところにも、これ以上もないほどに敵対しあっている者同士の間にも引かれうる、ということを示している。 これらの実践の中に、真に徹底した民主主義への希望がある。 
大澤真幸 『不可能性の時代』





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posted by Vigorous at 00:13| 社会学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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