2010年03月09日

No.654 『先見的に選択された性格』

   そもそも、自由であるとはどういうことか。 それは、選択できるということです。 ときに、根っからの悪いやつというのに会うことがあります。 。 非常に性格が悪くて、死ななきゃ治らないんじゃないの、と思うことがある。 あまりに悪いので、その人は、いわば生まれつき悪い、先天的に悪いのだ、という印象を与える。 ところで倫理的に責任を問えるのは、選択できることだけです。 たとえば、僕がここを歩いていたら運悪く棚からぼた餅が落ちてきて僕にぶつかったとき、ぼた餅を責めるわけにはいかないです。 置いた人を責めることはできるかもしれないけれども、ぼた餅そのものを責めることはできない。 ぼた餅には選択することができなくて、、単なる物理法則に従って落っこちてきているだけだから。 ここで重要なことは、先の先天的に悪い性格の者に対して、僕らはなお、その性格の悪さに対して当人に倫理的な責任がある、と感ずるということです。 カントは、ここに、不思議な 「誤った」 倫理的推論があるという。 先天的な性格だと感ずる以上は、それは当人には選択できなかったはずではないか。 にもかかわらず倫理的に悪いという感覚を持つのはどうしてか。 
  だから、我々は、あたかもこんなふうに考えているわけです。 本来は、選択できない性格を、その人は、選択している。 いつ選択しているのか。 その性格は先天的なものだから、いわばその人が生れ落ちる前です。 つまり先験的過去において、性格そのものが選択され、それによって、その人の運命が全体として規定されている、そういうことになるわけです。 自由がいかにして可能かと問うことは、この先見的な過去における選択とは何か、ということを問うことです。 
大澤真幸 『戦後の思想空間』





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posted by Vigorous at 21:40| 教育、心理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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