2010年02月17日

No.638 『物質化された他者としての監視』

   現代社会の中に顕著に現れている諸現象が教えることは、人は他人に見られることを決して忌避してはいない、ということである。 むしろ逆である。 若者たちの携帯電話の使用方法についての、北田暁大の分析が明らかにしているように、若者たちは、何らかの内容のあるメッセージを送るためではなく、ただ、互いが繋がっているということ、互いが配慮しあっているということを確認するためだけに、携帯電話をかけあい、メールを送りあう。 こうしたことは、家族との関係まで断って、個室に引きこもっているような若者にすら当てはまる。 その個室には、たいていインターネットに接続されたバソコンや、常時スイッチの入っているテレビがあって、彼らの他者たちへの繋がりを保障しているのだ。 だから、他者に見られているかもしれない、ということが不安なわけではない。 まったく逆に、他者に見られていないかもしれないということが、不安なのだ。 だから、絶えず、見られていることを確認しようとするのである。 なぜ? 私がまさにここに存在しているということの存在論的確認を得るためである。 酒鬼薔薇聖斗の表現を用いるならば、自分が、 「透明な存在」 ではないことを確認するためである。 ここに、監視装置の形而上的な次元がある。 そうだとすれば、監視は大いに結構だということになるのだろうか。 少なくとも、監視の悪は、大幅に減殺されるということになるのだろうか。 そうではない。 
  監視の問題は、プライバシーの保護を目的として掲げる監視の批判者が考えていることとは、まったく反対側にあるのだ。 われわれは、不定の 「他者」 によって見られている (かもしれない) という原初的な感覚を持っている。 「監視」 という形式で、 「他者」 を具体化・物質化したときに失われるものは、 「他者」 のこのような本来的な不定性である。 余すことなく張り巡らされた監視のネットワークがわれわれから奪うのは、監視カメラの物質的な現前には解消されない、 「他者」 の余剰性なのだ。 監視社会が侵食し、奪い取っているのは、 「他者」 から離れた孤立した時空間ではなく、逆に、 「他者」 とのある種の関係性の方である。 
大澤真幸 『不可能性の時代』





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posted by Vigorous at 18:37| 社会学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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