オウムは、身体の個体としてのアイデンティティを解除し、それを気体化していく。 それが、解脱ということでした。 ハイデッガー風に言えば、自己−外−存在になるということです。 ところで、個体のアイデンティティは何によって保障されているのか。 それは個体 (個人) の固有の利害関心、固有の理想や理念でしょう。 だから、利害関心や理念、理想、価値といったものを相対化し、そういったものへの執着を脱しなくてはならない。
具体的に説明します。 自己を解脱するにはどうしたらよいか。 そりためには、自己の意志を棄てなくてはならない。 どうやってか。 他者の意志だけで動けばよいのです。 それが、師 (グル) への 「帰依」 ということです。 しかし、このとき、他者の方が実体化され、絶対化されているんです。 そうして実体化された他者が、真我です。 それは、麻原という他者のうちに現実化している自我です。 解脱するためには、他者に帰依しなくてはならない。 だから、自己において解除されたアイデンティティが、いわば他者の方に蓄積されていくわけです。 だから、同一性 (アイデンティティ) からの開放は完全には果たされない。 自我を解脱するためには、本物のより大きな自我、つまり真我が必要になる。 デリダ風に言うならば、ここで、形而上学というものが回帰してきているわけです。 ここにオウムの失敗の原因がある。
大澤真幸 『戦後の思想空間』
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