2010年02月09日

No.632 『オウムと気体』

   身体というのは動物性を備えている。 だから、それは必ず世界のどこか特定の地点に、 『ここ』 とか 『今』 というところに縛られているわけです。 皆さんはそこにいる、僕はここにいる。 身体がここにあるという、身体にとっては宿命的なリアリティを、克服したい。 それが空中浮揚ということに憧れる者の原初的な欲望です。 こうした欲望を、最も初歩的な水準でかなえてやれば、空中浮揚になり、もう少しレベルを上げれば、体外離脱になります。 オウムは、 「ここ」 性への拘束から逃れた身体というものをどうやって獲得しようとしたのか。 
  そのための修行があったのです。 身体がここに縛られているというリアリティを克服するためには、身体の生きられた実感の上で、その個体としてのまとまりを解除し、それを微分してしまう必要があるのです。 身体をどんどん微分していくと、やがて、身体は、自分自身を、流体とか気体のようなものとして、あるいは、物質性を持たないエネルギーの波動のようなものとして、実感するところまでくるはずです。 修行というのは、こういう実感を得られる水準まで、身体を苛め抜くことです。 最後には、身体というのは、鈍重な普通の物質ではなくて、空気の中に飛び交う気体のようなものとして実感されるまでに至る。 オウムが志向した身体は、要するに、気体としての身体です。 ここまでくると、ハイデッガーの精神とオウムの身体は、非常に近いものではないか、という予想がますます信憑しうるものに感じられてきます。 修行によって身体は個としてのまとまり自我としての統一性の感覚を、完全に失うでしょう、それが解脱ということです。 つまり、オウム的な修行をつめば理念上どうなるかというと、身体は自己でありかつ他者である、自己でありながら他者である、という自覚を持つようになる。 それは、自己が他者の身体に直接に参入し、他者が自己の身体に直接に没入し、自己と他者が、直接に共振(シンクロ)している状態だと言ってよい。 その他者とは誰か。 それは言うまでもなく、とりわけ教祖麻原彰晃です。 
  こうした考察を経て、オウムのあのサリンへの不合理なまでの拘泥を振り返ってみたいんです。 僕は、サリンと、オウムの気体としての身体 (クンダリーニ) は、じつは同じものだったんじゃないか、と思っているのです。 オウムの身体と、ハイデッガーの精神の、類比的な関係というものを、示唆してきました。 もしもオウムの身体がサリンでもあるならば、ハイデッガーの精神は、アウシュビッツの毒ガスでもあるのではないか。 こう考えれば、デリダの隠喩には、悪意のある戯れとばかり言ってはいられない、理論的な意味があるのかもしれない。 
大澤真幸 『戦後の思想空間』





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posted by Vigorous at 21:31| 社会学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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