2010年02月06日

No.629 『見られている、という原初的な直感』

   しばしば、他者を見ること、覗くこと、他者に見られずに見ることは、人間にとって根源的な欲望であると見なされている。 だが、むしろ逆に、 「他者」 に見られることこそ、より本質的な欲望なのではないか。 少なくとも、見る事と見られることは、同じ程度に根源的な欲望なのではないか。 人は、常に、 「他者」 に見られているのではないかと直感し、さらに 「他者」 に見られたいと欲望しているのではないか。 日本の古代の大型古墳は、特殊に形状をもっているが、その全体像は、天空高くからでないと、捉えることができない。 つまり、実際には誰も、全体像は見えなかったということである。 同じことは、インカ帝国における、地面に彫られた巨大な地上絵にも言える。 これらの事例は、誰かによって、誰か不定の他者によって、自分たちは見られている、という原初的な直感が作用していることを示唆している。 
  無論、これらの図を描く当時者たちは、これを、神や祖霊など超自然的な存在者の眼として説明するだろう。 普通は、神などの超自然的なものの存在を信じているがゆえに、 「見られている」 との感覚が生じ、この種の図像にも創られる、と考えられている。 だが、むしろ順序は逆なのではないか。 つまり、誰とも特定しえない、不定の 「他者」 に見られているという感覚がまずあり、その不気味さを解消し、馴致するために、その他者を 「神」 と名づけ、意味づけることで安心感を得ているのではないだろうか。 
大澤真幸 『不可能性の時代』





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posted by Vigorous at 09:39| 社会学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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