2010年01月11日

No.607 『アウトソーシングされる信仰』

   多文化主義は、多様な宗教、多様な生活様式の寛容なる共存を謳うわけだが、信仰を私的な趣味のようなものと見なした上で、これを許容する。 言い換えれば、普遍的な真理として教義にコミットするような信仰は許されない。 ということは、もっと率直に言ってしまえば、多文化主義の下では本当は教義を信じてはいけない、ということではないか。 これはむしろ、信仰の否定である。 
  皆、信じているふりをしているのである。 信じている人がそうするであろうように振る舞うことは許されているのだ。 私は信じているふりをする。 あなたもそうしてもかまわない、お互い信じているふりをしあおうではないか、というわけである。 
  だが、ここには、さらなる展開の胚子が孕まれている。 たとえば、私は、神を信じているわけではないが、教会での祈祷や礼拝には礼儀正しくつきあう。 つまり、信じているふりをする。 なぜか。 私ではない誰かが、信じているからであろう。 つまり、私の振る舞いは、その 「誰か」 の信じていることを前提にしており、その誰かの信仰の圏域に属しているのである。 たとえば、テレビのバラエティショーには、しばしば、 「スタジオのお客様」 が参加している。 彼は、何のためにいるのか。 彼らは、ショーに驚いたり、笑ったりする。 だが、真のオーディエンス (観客) は 「私たち」 、テレビのこちら側にいる私たちではないか。 私は、もうひとつおもしろくなくて、笑えなかったとする。 あるいは疲れていて、大笑いする元気もないかもしれない。 それでも、私はテレビのスイッチを切らない。 「スタジオのお客様」 が、私の代わりに盛り上がっているからだ。 そうである以上、このとき私は、結局、楽しんだことになるのである。 そうだとすると、 「信じているふりをしている (ほんとうは信じていない)」 ことは、 「信じている」 ことになるだろう。 
  多文化主義の世界では、人は、そうとは自覚せずに信じているのである。 このような状態を 「アイロニカルな没入」 と呼ぶ。 アイロニカルな没入は、本気で信じている他者の存在を、外部に前提にしているときに帰結する。 「信仰」 が、その他者に転移されるのだ。 
  原理主義とは、このような状態、つまり、 「信じているふりをしている自己」 と 「信仰をその上に転移されている他者」 とが合致してしまっていいる状態ではないだろうか。 信仰は、言わば外部委託されているのだ。 
  アイロニカルに没入するためには、どこかに、信じている他者が存在していなければならない、と述べた。 どこにいるのか。 第三世界の原理主義者のところに、である。 このことによって、 「先進国」 の多文化主義者は、 「自分たちは決して狂信的な信仰をもってはいない」 と主張することができる。 このような形式で、多文化主義と原理主義、 「物語る権利」 と 「真理への執着」 は依存関係にあるのだ。 
大澤真幸 『不可能性の時代』 (改)





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posted by Vigorous at 09:39| 社会学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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