2009年12月25日

No.592 『共通了解と自由の相互承認』

   ハーバーマスの 「対話的理性」 の思想を少し単純化して言えば、同じ人間としてとことん誠実に対話を重ねれば必ず合意を取り出せる、というわけですから、そうとう理想主義的、規範主義的です。 しかし、にもかかわらず、ハーバーマスの思想には考えるに値する重要な直観があると思います。 「同じ人間どうし」 だからとことん話せば必ず通じ合う可能性があるはずだという前提は、一見理想主義的にすぎるように思えますが、ハーバーマスの考えの中にはある根拠が潜んでいるのです。 
  われわれはさまざまな考え方や意見が絶対的な 「一致」 をみることなどはないという直観、 「絶対的真理の不可能性」 の直観を持っています。 しかし一方で、一定の事柄について何らかの 「妥当性」 や 「正当性」 があるはずだという直観、 「公共的な妥当性への一般的信憑」 の感覚も持っている。 つまり、 「絶対的な真理などない」 という感覚は、 「一般的な妥当性がどこかにある」 という感覚と決して相容れないものではない。 
  現象学の思考方法を推し進めると、人間の世界像において、共通了解の成立する領域と成立しない領域があることが明らかになる。 社会的に公共的性格をもつ問題とは何かということですが、このことがハーバーマスの理論では行き止まりになるのです。 しかし現象学の考えを適用すると、何が公共的な性格をもつ問題かを明確に確定することができます。 社会のさまざまな問題の中で、どこまでが共通了解を取り出しうる問題で、どこからが取り出しえない領域となるか、その境界線をはっきり取り出すことができる、ということです。 
  われわれが 「自由な個人」 を社会を構成する基本単位と見なし、社会を、その上に成立するフェアなルールゲームであると相互に認めるかぎりで、フェアな 「社会」 が存続し続けるためのルール設定の 「基本原則」 は、必ず共通了解として取り出すことができます。 言い換えれば、各人による 「自由の相互承認」 ということを 「近代社会の」 基本的公準とするならば、共通了解が成立する公共性の領域が設定できます。 それより外側の問題、個々人がどのような生き方、どのような価値観、どのような生活信条、どのような宗教、趣味などをもつか、といった問題については、もちろん明確な共通了解は成り立ちません。 むしろ、このような問題については多様性を相互に認めあわなくてはならない、ということが社会の原則なのです。 
竹田青嗣 『現象学は《思考の原理》である』





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posted by Vigorous at 22:22| 哲学・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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