2009年12月21日

No.589 『自己批判的にならざるをえない戦後後思想』

   アメリカというのは、国際政治の制度としてはずっと日本と同盟関係にあるけれども、我々がアメリカというものを自然に受け入れて、アメリカのいわば軍門に下るということに、何ら違和感も覚えないですんだ時期というのは、せいぜい1970年代までなんです。 それ以降は、自分たちがアメリカの庇護のもとにあるということ自身に、どうしても違和感を覚えてしまう。 それにどういうふうに思想的に対決しなければいけないかということが問題になってしまう。 そういう時期なんです。 そういうふうに考えると、ここで定義した戦後というのは、大体1970年代で終っているんです。 そして、今日は、この後どういうことが起きるかということを考える。 それが 「戦後・後」 の思想という意味なんです。 1970年代以降の思想ということです。 
  まず70年代のちょっと前、60年代末期、とりわけ68年をピークにして72年に終結を迎えるまでの時期というのは、移行期になるわけですけれども、この時期は皆さんもよく知っているように、学生運動がピークだった時期です。 若者の反乱の時期になるわけです。 この時期というのは、近代というものをリードしてきたアイディアとか、あるいは日本の場合は特に戦後民主主義のような、戦後をリードした理念というものを批判する時期であったというふうに、大体言っていいわけです。 ただ、この場合、そういった近代をリードした理念とか、戦後をリードした理念を批判する、その批判の立場自体が、基本的には近代的であったり、あるいは基本的には戦後的な理念を前提にしていた。 非常に卑俗に言えば、このときに批判されているのはアメリカ的なものなんです。 理論的に言えば、アメリカ帝国主義だし、あるいは自由とか民主主義というアメリカ的な理念ですね。 そういうアメリカ的な理念とか帝国主義というものが批判されているけれども、しかし、その批判する当人は、アメリカからやってきたカルチャーというものをどっぷり受け入れている。 
  ともかくこういうやり方は矛盾している。 自分で自分の基盤をたたいていくわけですから。 ですから、次第に自分が立脚している立場が一体何であるか分からなくなってしまう。 つまり、自分が批判しているんだけれども、その批判している対象になっているものが自分自身の論拠になっていたりしますから。 自らが立脚するベースそのものをだんだん空虚なものに変えていってしまうんです。 
大澤真幸 『戦後の思想空間』





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posted by Vigorous at 21:05| 指導者、政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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