2009年12月19日

No.587 『生命の平衡点移動機能』

   遺伝子ノックアウト実験が企図された。 牛でノックアウト実験を行うのは不可能ではないが、場所的にも、技術的にも大変手間がかかる。 そこで定番のマウスが使用された。 マウスにもプリオンタンパク質が存在し、狂牛病の牛の脳をマウスに投与するとマウスを狂鼠病にすることができる。 つまりマウスは狂牛病に感染し、この病気のモデルとなりうるのだ。 この実験を最初に行ったのはスイスの研究グループだった。 
  当初の予想は、プリオンタンパク質遺伝子をノックアウトしたマウスは、狂牛病にかかった牛と同じ症状、つまり歩行障害などの神経症状を示すだろうというものだった。 ところがである。 プリオンタンパク質をノックアウトしたマウスは正常に誕生し、成長後も健康そのもの、何の不具合も見つからなかった。 スイスの研究チームは、時間をかけてこのマウスを注意深く解析した。 しかし異常はどこにも見当たらなかった。 マウスの寿命は2年ほどだが、ノックアウトマウスは短命になることもなく、また寿命終盤になっても特別な神経症状を発することもなかった。 生存のためにも、健康の維持のためにも、プリオンタンパク質は存在しなくても問題ない分子のようだった。 
  このプリオンタンパク質ノックアウトマウスに、もう一度、正常なプリオンタンパク質遺伝子を戻してやったらどうなるか。 ノックアウトマウスに、プリオンタンパク質遺伝子をそのまま戻すほかに、部分的に不完全なプリオンタンパク質遺伝子を戻してみたのだ。 
  生まれてからしばらくは何事もなかった。 しかしこのマウスは次第におかしな行動を取るようになり始めた。 歩行の乱れ、台からの落下、身体の震え。 このような症状はアタキシアと呼ばれ、運動をつかさどる脳の障害に起因する。 やがてマウスは衰弱して死ぬ。 不完全なかたちのプリオンタンパク質は、脳の仕組みを徐々に変調させていったのである。 ピースの部分的な欠落のほうがより破壊的なダメージをもたらす。 むしろ最初からピース全体がないほうがましなのだ。 
  このような振る舞いをするシステムとは一体どのようなものだろうか。 私たちが行った遺伝子ノックアウト操作とは、基板から素子を引き抜くような何かではない。 私たちの生命は、受精卵が成立したその瞬間から、行進が開始される。 それは時間軸に沿って流れる、後戻りのできない一方向のプロセスである。 この途上の、ある場所とあるタイミングで作り出されるはずのピースが一種類、出現しなければどのような事態が起こるだろうか。 動的な平衡状態は、その欠落をできるだけ埋めるようにその平衡点を移動し、調節を行おうとするだろう。 そのような調節機能が、動的平衡というシステムの本質だからである。 平衡は、その要素に欠損があれば、それを閉じる方向に移動し、過剰があればそれを吸収する方向に移動する。 
  酵素のようなピースの欠落によってある反応が進行しなければ、動的平衡は別のバイパスを開いて迂回反応を拡大するだろう。 構造的なピースの欠損が、レンガ積みに穴を作るのであれば、似たような形状のピースを増産してその穴を埋めるようにするだろう。 そのために生命現象にはあらかじめさまざまな重複と過剰が用意されている。 類似の遺伝子が複数存在し、同じ生産物を得るために異なる反応系が存在する。 
福岡伸一 『生物と無生物のあいだ』





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posted by Vigorous at 10:04| 自然科学、環境 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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