2009年12月17日

No.586 『責任と第三者の審級』

   今日における民主主義の 「圧倒的な流行」 の社会心理的な背景を想像してみれば、そこには特定の 「ひねり」 があることが明らかだ。 自己責任という語の流行が示している社会的な事実は、まさにこの語の意味内容とは反対のことである。 つまり、国家であれ、国連であれ、誰も責任をとることができない、ということをこそ、この語は表現している。 誰も責任を取れないのだから、自分で責任を取ってくれ、というわけだ。 
  これと正確に同じことが、民主主義の流行にも言える。 ある選択が民主主義的に正当化されていれば、あとで、その選択が失敗であると判明したとき、誰も責任を取らなくてすむ。 つまり、民主主義に我々がしがみつくことの背景には、もしかすると我々の生存に最終的に責任をもってくれる超越的な形象 (第三者の審級) が存在していないのではないか、という不安がある。 他方で、人がそれに強迫的にしがみつくとき、その衝動を支えている心理は、まったく逆に、第三者の審級はもはやどこかに消えてしまっているのではないかという不安なのである。 
大澤真幸 『逆接の民主主義』





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posted by Vigorous at 20:43| 社会学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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