2009年12月02日

No.579 『重奏する自我』

   一組の男女がセックスをして、、ある特定の人間が生まれ、そいつが 「永井均」 と名付けられる。 そこには何の不思議もない。 でも、その子がどうして僕でなければならなかったのか、僕はどうしてそいつでなければならなかったのか、ここにはどうにも説明のつかない神秘がある。 その子が生まれ、成長しそいつは僕ではないという状況も十分考えられるはずではないか? 別のやつが僕でも良かったのではないか? 
  ぼくの問題は、A、B、C、D、四人の子どもがいるとき、ぼくがBであって、AやCやDではないことにあった。 Bであるぼくが自我を発見できるか、なんてことはどうでもよかった。 もしそんな自我なんてものがあるなら、他人にもあるだろう。 問題は 「ぼくの自我」 の 「自我」 の方にあるのではなく 「ぼくの」 の方にあるはずだ。 その 「ぼく」 とは一体何なのだ? この問いに再び 「自我」 を持ち出して答えることはもうできない。 
  では、ぼくがこの世にいない状況というのは、どういう状況だろうか。 さっきのA、B、C、D、の四人の場合で考えれば、いちばん単純に考えられるのは、まずBがいない状況だ。 でも、実はそうではない。 Bという人間が居るにもかかわらず、そいつは《ぼく》ではない、ということが考えられるからだ。 いま想定している世界は、A、B、C、D、の四人の男の子がいて、Bが《ぼく》である世界だった。 だから今度は、Bがいなくなるのではなく、Bはそのままいるのだが、そのBが《ぼく》ではない、という状況を考えてみればいい。 
  Bがかくかくの性質を持っていれば、Bは《ぼく》になる、ということはありえないのだ。 つまり、そいつのもっているどんな性質も、そいつが《ぼく》であったことを説明しないのだ。 だから、そもそも《ぼく》が存在しなければならなかった必然性は何もない。 《ぼく》の存在は一つの奇跡なのだ。 
  永井均がぼくだったことの、偶然性に驚くとき、それはある意味で確率的な驚きであるといえる。 なぜなら、その驚きは、徳川家康が《ぼく》であったり、ポチが《ぼく》であったりすることもできたはずなのに・・・・、ということへの驚きであり、そうであることもできた範囲があるからだ。 それに対して、《ぼく》が存在していることへの驚きは、確率的考慮などまったく寄せ付けない。 存在しなかった可能性がどのくらいあったか、なんて考えようもないからだ。 そして、それが考えようもないということは、重大な意味を持っているのではないだろうか。 
永井均 『《子ども》のための哲学』





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posted by Vigorous at 19:10| 哲学・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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