2009年11月11日

No.562 『真理の近似物』

   クリッチリーは、どのような支配の体制もヘゲモニー的で、その点では民主制も異ならないが、ただ民主制のみが、そのヘゲモニー性を自覚しており、またそれをあからさまにしている、と論ずる。 
  ここで、「ヘゲモニー的」と言われているのは、原理的には偶有的であるような価値観が強制されている状態である。 つまり、 「他でもありうる」 という可能性を除去できない、支配を正当化している価値や理念は、結局、真理に基礎づけられていない、恣意的な選択の産物でしかないからだ。 説明しよう。 (中略)
  我々が知っている民主主義の手法は、基本的には二つである。 一つは、合意を目指す (開かれた) 討議である。 もう一つは、討議が合意へと収斂しない場合にしばしば採用されるのだが、 「投票」 である。 まずは前者、討議の場合を考えてみよう。 討議がなされるということは、人々の意見が多元的に分散しているということになる。 真理が何であるかを人々は知らない。 が、しかし、討議のテーブルに人が就くためには、少なくとも、合意への期待をもっていなくてはならない。 人が民主的な討議に頼るのは、何が真理であるかを、あらかじめ知ってはいないからだが、しかし、討議しているとき、人は、単一の真理が存在しているかのように振る舞っているのだ。 一方では、人は討議において、どの特定の意見も、そしてまたどのような結論に至ろうとも、それは偶有的なものであると認識はしている。 だが、他方で、まさに討議するという行動において、人は、必然的な真理の存在を前提にしてしまっているのである。 だから、合意事項は、真理であるかのように扱われることになる。 偶有性は、認識の水準では自覚されているが、行動の水準では否認されている。 
  同じことは投票に関しても言える。 なるほど、投票や多数決においては、結論は、全員一致の合意事項ではない。 その結論に同意しなかった、半数近くの (時には半数以上の) 、人がいることがあからさまになっている。 だから、投票の結果に関しては、討議の場合よりもはるかに強く、人はそれを偶有的だとの印象をもつだろう。 しかし、投票の場合も、結局、真理そのものは仮定されているのである。 投票を成り立たせているのは次のような態度である。 『真理の内容は、結局はわからない。 それは永遠に分からない。 が、しかし、真理が存在している以上は、それが 「何か」 であるはずだ。 それは、何か実定的な内容をもっているはずだ。 第一に、真理は、十分に理性的であれば、全員が合意するはずのものであること、第二に、真理が存在していることは確実であるということ、これら二つの条件から、全員ではないにせよ、できるだけ全員に近いものが同意したものを真理の近似物として使用しよう。 それを暫定的に真理であるかのように扱おう。 』
大澤真幸 『逆接の民主主義』





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posted by Vigorous at 20:26| 指導者、政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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