18世紀には、 「自由」 の理念はヨーロッパ人の 「希望の原理」 だった。 しかし、19世紀になると、こうした概念は2つの理想に分裂する、つまり、 「自由なき平等」 と 「平等なき自由」 とに。 これを象徴するのが 「社会主義」 と 「資本主義」 だ。 近代社会は個々人の 「自由」 を確保しようとするものですが、これを経済制度として支えるのが普遍交換、自由市場というシステムです。 だがそこからいわば新しい支配関係が現れてきた。 これを制御できなければ、個々人の 「自由」 を開放することで人間性の本質を開放するという近代の根本プランは絵に描いたモチになり、元も子なくなる。 この近代の危機を根本的に克服するための原理は、自由競争と私的所有を禁止し、富を社会的に再配分する以外にない。 これがマルクス主義の基本の考えです。
しかし、このプランを実行するにはいったん開放された 「自由」 を禁止せねばならず、そのためには強大な権力が必要です。 ところが、決定的だったのは、社会主義の原理には、政治権力の正当性の根拠がないということです。 市民社会の考えでは、各人が自由な個人であるということが政治の前提であり、したがって政府は各人の政治的意志を 「一般意志」 として代表するかぎりで、政治権力の正当性をもちます。
社会主義国家の原理は違います。 政治権力の根拠は 「理想理念」 です。 このような政策こそ万人を幸福にするはずだという一つの政治的理想がその正当性の根拠であり、今は万人が賛成しなくても、いずれそのことが実証されて人々はこれに賛成するはずだ、という考え方です。 この理想理念によって、使命を感じた人間が前衛党を作りその独裁が正当化されるわけです。 もしきちんと選挙を行えば、そういう絶対的な権力は成立しません。 だから社会主義政権は必然的に、権力闘争を勝ち抜いた特定の党派の専制、あるいは独裁政権となるのです。
ひとことで言えば、マルクス主義は18世紀的な 「絶対自由」 の原理を 「絶対平等」 という原理に置き換えることで、新しい政治原理を構想したのですが、 「絶対平等」 は 「絶対権力」 なしには成立しないために、政治原理としては中世的な 「教義権力」 の原理に先祖返りする以外には、これを現実化する方法がありませんでした。 競争原理を制御する必要があるというマルクス主義の考えはきわめて正当だったけれど、政治理論としては原理が作り出せなかった。 そこが致命的な欠陥でした。
竹田青嗣 『現象学は《思考の原理》である』
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