2009年10月05日

No.533 『現象学的還元とエポケー』

   フッサール自身が示唆している問題、すなわち一切を還元するというが、ではその還元を遂行している 「自我」 については還元は遂行されないのか、という問題。 現象学は 「還元」 を行えと言うけれど、完全な還元など可能か、純粋自我など可能なのか、といったことがいつでも現象学的議論の中心となり、これについて山のように論文が書かれてきたのです。 しかし、 「還元」 とは、ひとことで言って考え方の順序を変更することであり、フッサールの言う 「純粋自我」 とは、そのような現象学的態度をとっている視線のことにすぎない。 
  いま目の前に 「リンゴ」 があります。 いまわたしは目の前のリンゴの存在について確信をもっていますが、この確信はどのような条件と構造において成立しているか、を明らかにしたいわけです。 このときどのように考えればいいか。 ふつうの自然な考え方の順序を 「ひっくり返す」 必要があります。 
  「いま目の前にリンゴが存在しているので、赤くて、丸くて、つやつやした様子がわたしに見える」 、という考え方をいったん中止して (これがエポケーです) 、それを、 「いま私に赤くて、丸くて、つやつやした様子が見えている、だから私は目の前にリンゴが実在しているという確信をもつのだ」 、という考え方へと変更するのです。 自然的態度では、リンゴの実在が 「原因」 で、意識に現れているのはその 「結果」 です。 現象学的還元の見方では、これが逆転します。 
  現象学的還元とは、要するにこの確信成立の条件を問う方法であり、自然な見方の順序を逆転させる (エポケーする) 必要があるのです。 
  われわれが世界観についての信念を絶対的なものとして 「前提」 するのを止め、なぜそのような信念が成立したのか、という信念成立の条件を遡って問うという方法しかありません。 このときはじめて、どれが正しい (客観的な) 世界観かという問いは終焉し、世界観の多数性の本質的理由が明らかになるからです。 
  「現象学的還元」 とはどのような方法かと問うなら、それ以上の余計な説明は不要であり、むしろ還元の概念を混乱させるだけです。 ですから、 「超越論的主観」 や 「純粋自我」 は可能か否か、といった問いはまったくのスコラ議論なのです。 このような問い自体、まさしく還元ということを 「真理主義的」 に思考しているために現れたものです。 
  何事かを 「確かめ直そうとするとき」 、われわれは必ずそれまでの因果性の根拠関係を逆転させ、根拠へと遡行します。 還元とはそういうことであり、それ以外の態度はありえないのです。 
  現象学の方法とは、われわれが世界のあり方を問い直したり、再検証したりする必要に迫られたときに採る基本の態度、基本の思考法を、哲学的な原理として方法化したものと捉えるのが適切なのです。 
竹田青嗣 『現象学は《思考の原理》である』





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posted by Vigorous at 20:25| 哲学・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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