2009年10月02日

No.531 『子ども独我論』

   一人の先生があるとき授業中につぶやいた。 「科学はすべて、自然現象をうまく説明するための仮説に過ぎない」 という言葉を聞いて、ずいぶん心が落ち着いたものだ。 「仮説」 という言葉が当時の僕の心をとらえた。 僕はそれを 「よくできたお話」 という意味に理解した。 化学記号で表されるような元素が存在するなんて、一つのお話にすぎないんだ、というふうに。 歴史や科学がお話であるのなら、僕の人生全体もそうなのではあるまいか。 僕以外の人とは、僕の世界の登場人物にすぎないのではあるまいか。 世界中のあらゆる出来事が、僕というただ一人の観客のために上演されている芝居にすぎないのではあるまいか。 ビートルズの流行もベトナム戦争も、僕というただ一人のために書かれたシナリオにすぎないのではないか。 しかし、この考えは、僕を満足させなかった。 僕一人のために、世界がこれほど大がかりな芝居を上演しなければならない理由が分からなかったからである。 
  とはいえ、そんなふうにでも考えてみなければ、多数の人間の中に、僕という特殊な人間がいるということがどうしても説明がつかなかった。 今も、この問題にとらえられていた当時の異様な感覚をありありと思い出す。 不思議なことに、この問いの意味は誰にも理解されなかった。 
  僕は国語の時間に、この問題を、いくつかの解決案 (世界は僕のために上演されている芝居であるとか、そういった) と一緒に、作文を書いた。 「深く考えることも大切だが、もっと素直に物事を見ることも大切だと思う」 といった感想をつけて、その作文は返された。 若く溌剌とした感じのいい先生だったが、この一言を書きつけたというだけで、くだらないやつだったという思いは今も消えない。 それは、僕が生まれてはじめて本当に素直に書いた作文だったからだ。 (中略) 実を言うと、そのとき僕はその先生に、ひそかにある反応を期待していた。 「世界中のあらゆる出来事は、僕というただ一人の観客のために上演されている芝居にすぎない」 という僕の主張に対して、僕の期待の中で、彼はこう反応してくれるはずであった。 「いや、そうではない。 僕を騙そうとしても無駄だ。 世界中のあらゆる出来事は、私のために上演されている芝居にすぎないのだ。 君なんか、私の世界に登場する脇役の一人にすぎないことぐらい、僕はとっくに知っているのだ」 。 
  もちろん、彼が本気でそう言うことを期待していたのではない。 冗談でよかったのだ。 大人たるもの、誰でもそういう可能性をいったんは考えたうえで、そ知らぬ顔で普通の生活をしているのではないか、という幻想を僕は捨てきれずにいた。 もし彼がそう書いて、あとは平然と普通の授業を続けてくれれば、彼と僕はひそかな友情が結べるような気さえしていた。 つまり、独我論者同士の友情。 確かにとても不思議な感覚だが、僕は世界に対してずっとそういう感覚を持っていたのだ。 まったく接点がないことによる接点によって支えられた宇宙みたいな感じ。 この感覚の共有を最も強く感じたのは、後にウイットゲンシュタインの遺稿を読んだときだった。 ぼくは彼の世界の感覚に、いわば肉感的に共感してしまった。 
永井均 『《子ども》のための哲学』





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posted by Vigorous at 21:28| 哲学・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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