2009年09月22日

No.523 『存在を問い、無と関わる人間』

   なによりも確実なことは自分の死であって、じつは人間の人生上さまざまな希望や計画のすべてが、結局のところ、死に臨んでいることに由来しているのです。 限りある人生を有益に過ごそうと思うことも、人生は暇つぶしにすぎないと思うことも、いずれも死への対処です。 だが、その肝心要の死というものが、いつ来るのかまったく分からない、まったく無規程なものなのです。 極端なことをいえば、自殺を試みてさえ確実に死ねるかどうかは分かりません。 
  このような真相に直面させられたら、現存在は自分の足元が崩れ去って、何もなくなってしまうように感じるのではないでしょうか。 無のただ中に放り出されているように感じるのではないでしょうか。 自分の存在を確固とした根拠の上に据えることによって安心しようとしても、それは無駄だということです。 私たちは死の無の底なしのただなかに放り出され、いわば宙吊りにされているのです。 現存在は、無のうちに宙吊りにされた存在、サスペンディドの状態にあって、サスペンスを感じています。 このサスペンスの気分を、ハイデガーは 「不安」 と名付けます。 

  「死に臨んでいる存在は本質的に不安である。 」 (『存在と時間』第35節)

  無に物差しを当てても、無は計測の結果を果てしなく否定し続け、結果としては何も出してきません。 そういう意味で、存在への問いは自然科学や数学の問題のようには解けないのです。 
  では、最終解答の出ないそのような問題を、なぜ問わなければならないのでしょうか。 それは、結局のところ、そういう問いを問うことによって人間の本質に目を向けることが、人間が自分のことを誤解しないため、自分自身であるために必要だからです。 人間も一種の機械であるとか、人間も一種の動物である、という考えがあります。 こういう考えは人間の本質に対する誤解といわざるをえません。 機械や動物と違って人間は存在を問うことができます。 人間は不安の気分において無と関わることができます。 人間を機械や動物のように考える誤解にもとづいて人間が人間に対するとき、あるいは企業や政治が人間と対するとき、人間は人間でないものとして扱われることになります。 そのようなとき、人間は非人間化されてしまうのです。 存在への問いはそのようなことがないように、人間にとって存在とのかかわりが決定的に重要だということを明らかにするのです。 芸術や宗教も、ここから生まれてくるのです。 
左近司祥子編 関口浩著 『西洋哲学の10冊』





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posted by Vigorous at 22:54| 哲学・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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