2009年09月15日

No.517 『世界観と共通了解』

   明日が何曜日かを考えて言ってみてください。 「日曜日」 ですね。 ところでそれは強い確信でしょうか。 強い確信ですね。 ではなぜそれが強い、はっきりした確信なのかを考えてみてください。 それが自分の中で強い確信として言えるその理由、条件を取り出してみてください。 明日何曜日かなと考えてみれば、いろんな記憶や像が浮かんできますが、たとえば 「今日は土曜日だ」 と確信した記憶が何度でも反復される限り、 「明日は日曜日だ」 という確信は動かしがたいものになるでしょう。 つまり、一般的に言って、このような場合の 「確信」 の第一条件は、それを根拠づける記憶、想起の 「反復可能性」 (何度でも反復されること) であると言えます。 
  この方法を適切に応用すると、こんどは世界像 (世界観) の一般的な 「確信条件」 の輪郭を取り出すことができます。 たとえば、世界は神が創ったものであるという宗教的世界像の確信=信念は、生育時のまわりの言説、教育などを一般的条件とすることは明らかです。 それは世界の信憑像として人間に住みつくのです。 
  こうして、どこかに 「正しい」 世界像が存在するという想定をいったん廃棄し (それがまさしく 「エポケー」 や 「括弧いれ」 の意味です) 、すべての 「世界像」 を、徹底的に、形成条件によって成立する確信=信念であるとする発想を推し進めてゆくと、我々はさらに次のことを理解せざるをえなくなります。 すなわちそれは、各人の世界像は、必然的に、共通了解が成立している領域Xと、共通了解が成立しない領域V1〜Vnに区分される、ということです。 
  現代に近づくほど、Xの領域は拡大してくることが明らかですが、それを代表するのは、自然科学的な世界説明の領域、数学、シンプルな論理学的原則の領域などです。 これに対して、Vの領域を代表するのは、宗教的世界像、それぞれの美意識、倫理感覚、価値観などの領域です。 この領域では、共通了解、共通構造が現れない、ということが 「構造的」 本性です。 端的に言って、キリスト教やイスラム教といった宗教的世界観は、文化、風土、歴史の経緯で異なった形をとることが不可避かつ必然的です。 そしてこの領域で、どれが 「正しい世界観」 であるかと問うことは無意味なのです。 カントが、 「アンチノミー」 で行った 「形而上学」 の批判の本質的な意味は、こうして現象学では、世界観の形成構造の本質、という原理にまで展開されていくるけです。 
竹田青嗣 『現象学は《思考の原理》である』





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posted by Vigorous at 20:40| 哲学・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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