2009年09月14日

No.516 『《子ども》と哲学』

   子どもが大人になるとは、どういうことだろう。 思うに、それはこうだ。 子どもは、まだこの世の中のことをよく知らない。 それがどんな原理で成り立っているのか、まだよく分かっていない。 では、大人は分かっているのだろうか。 ある程度はそうだ。 しかし、全面的に分かってるわけではない。 むしろ、大人とは、世の中になれてしまって、分かっていないということを忘れてしまっている人たちのことだ、とも言えるだろう。 
  「知らないということを知っている」 ことを 「無知の知」 という。 知っていると思い込んでいる人は、もう知ろうとしないだろうが、知らないと分かっているなら、なお知ろうとし続けるだろう。 知ることを求め続けるこのあり方を 「フィロソフィア」 という。 だとすれば、子どもは誰でも哲学をしているはずである。 
  大人だって、対人関係とか、世の中の不公平さとか、さまざまな問題を感じてはいる。 しかし大人は、世の中で生きていくということの前提となっているようなことについて、疑問を持たない。 子どもの問いは、その前提そのものに向けられているのだ。 子どもは、時に、こうした疑問のいくつかを、大人に向けて発するだろう。 だが、たいていの場合、大人は答えてはくれない。 答えてくれないのは、問いの意味そのものが、大人には理解できないからである。 仮に答えてくれたとしても、その答えは的外れに決まっている。 つまり、大人になるとは、ある種の問いが問いでなくなることなのである。 だから、それを問い続ける人は、大人になってもまだ 《子ども》 だ。 そして、その意味で 《子ども》 であるということは、そのまま、哲学をしている、ということなのである。
永井均 『《子ども》のための哲学』





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posted by Vigorous at 20:05| 哲学・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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