『時間と自由』 で、ベルクソンが何を 「自由」 と呼んでいたのか。 一方でそれは、 「先読みできない」 、予見不可能という意味です。 なぜなら、私たちの心は計算できる数や量からできていないのですし、時を重ねながら二度と同じ姿をとらないからです。 それは、勝手に他人が外から計算したり合成できたりするものではないのです。 その意味で、私たちは自由だ、と言えます。 (中略)
さらに考えてみましょう。 「自分」 とは何でしょう。 その 「自分」 が本当にしたいこととは何でしょう。 実際、いろんなことができても、それが自分のしたくないことばかりだったら、何の意味があるでしょう。 しかし恐ろしいことに、私たちはしばしば、自分が欲していることを見間違えます。 テレビのCMにのせられたり、友人に話をあわせているうちにその気になってしまったり、小さいときからの教育で思い込まされてしまっていたりする。 「ここの料理はとてもおいしいよ」 「こんな生活はすごく幸せだよ」 という言葉にだまされてしまうのです。 「おいしさ」 や 「幸せ」 といった言葉は、言葉である以上みんなに共通なものですし、 「とても」 「すごく」 と言われれば、たとえば 「幸せ」 にははっきりした 「量」 の大小があるかのように思われてしまいます。 人間は社会の中で他人と共に生きるしかありませんから、それも仕方のないことです。 ベルクソンが 「表面的自我」 と呼ぶのは、私たちのそんな姿のことです。 私が、世間の言葉で簡単に表せるパーツが寄り集まってできた 「表面的自我」 になってしまうこと、それについてベルクソンはこう言っています。
「細分化された自我は、一般に社会生活の、特に言語の諸要求にはるかによく適合するので、意識はその方を好み、少しずつ根底的自我を失っていくのである。 」 (『時間と自由』 第二章)
しかし、もし 「自由」 が空しい幻でないならば、それはここで言われる 「根底的自我」 の自由でなければなりません。 他の誰とも違うこの私が、他でもない私の深いところから、何かを欲し、求め、行う。 ベルクソンが 「自由」 と呼ぶのは、そんなことなのです。
「私たちの行為が私たちの人格全体から出てくるとき、行為が全人格を表現するとき、行為が作品と芸術化とのあいだに時折見られるような定義しがたい類似性を全人格とのあいだに持つとき、私たちは自由である。 」 (『時間と自由』 第三章)
では、そんな 「私」 はどこに見つかるのでしょうか。 「持続」 とは、早送りも先回りもできないリアルな時間のことです。 思えば、そんな時間の中で生きていくからこそ、私の中には、借り物ではない私ならではの独特の思いがそれとして熟してくるのではないでしょうか。 つまり、まさに 「持続」 のうちでこそ、自分なりの生き方を持った 「私」 というもの (全体人格) が次第次第にできてくる。
ベルクソンの考えでは、 「持続」 は私が決してその外へと逃げ出せないリアルな時間ですが、だからこそ同時に、リアルな私が他ならぬこの私として生きていける時間でもあるのです。 そこに、他の誰のものでもない私の存在とその自由があります。 「時間」 と 「自由」 はこうして結びついているわけです。 だから、この 「自由」 とは、 「他のこともできる」 「他のこともできた」 という偶有性を示す意味ではありません。 私たちが現実に自由であるとしたら、それはそんな確かめようのないフィクションのおかげであるはずがないのです。 そんな発想はただの弱さ、現実の自分とは違うところにも自分の居場所を想定したい弱さの反映でしかありません。 (中略) やりなおしも言い訳もなしに自分自身の生をそのままにただ生きていく、というのは、まったくもって簡単なことではないのです。 『時間と自由』 は、単に 「私たちは自由だ!」 と謳い上げて終る本ではありません。 それは、私たちが、いかに簡単に自由を失ってしまうのかを容赦なく暴き出す、恐ろしい書物でもあるのです。
左近司祥子編 杉山直樹著 『西洋哲学の10冊』(改)
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