2009年08月24日

No.495 『家族関係の偶有化』

   すべての人類社会は家族をもっている。 誰もが、家族の中に生まれ落ち、一定の段階まで、そこで教育される。 誰にとっても、それぞれの家族は。 そこに内属すべく、与えられた関係である。 言い換えれば、誰にとっても、家族は、選びようのない必然として体験されるのだ。 ところが、しかし、二十世紀末期以降の、若者たちの奇妙の犯罪が示しているのは、家族関係の 「偶有化」 とでも呼ぶべき感覚である。 偶有性とは、 「他でもありえた」 ということであり、必然性と不可能性の双方の否定によって定義される様相だ。 あの若者たちにとって、自らの与えられた家族が、必然とは感じられていない、ということである。 
  家族の関係が偶有化し、崩壊しているという事実を、単純に、家族の中で個々のメンバーが孤立化し、個人化が進捗している、と解するだけでは不十分である。 家族の内的関係が偶有的なものとして現れてくるということは、別の関係が必然的なものとして現れているからである。 それが、自分にとって、家族の関係よりもいっそう本来的で、選びようがないものとして現れているがゆえに、家族との関係が、どうでもよいものに見えてくるのだ。 (中略) 
  本来最も自然なものとして受容されるべき家族の内的な関係を偶有化してしまう別の関係、それは何か? それは、他自身が、自身体に参入してくるかのように感受される、極限的に直接的なコミュニケーションではないだろうか。 (中略) 
  現代社会には、若者たちを中心にして、極限の直接性を志向するコミュニケーションへの強い欲望が、広く浸透しているのだ。 インターネットや電話は、無論、物理的には、はるかに遠く隔たった身体同士を接続する。 その意味では、ここに実現するのは、間接度の高いコミュニケーションである。 しかし、当事者には、むしろ、インターネットは、直接性の高い、ほとんど触覚的なコミュニケーションの場として体験されている。 サイバースペースのコミュニケーションにおいては、一般の (現実の) コミュニケーションにおいては深く秘匿されるような内密な核の部分を、人は、他者に直接に曝すのであり、また他者は、その内密な核に直接にアクセスしてくるのだ。 
大澤真幸 『不可能性の時代』





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