2009年08月12日

No.0484 『不可能性の時代』

   現代社会は、 「現実への逃避と極端な虚構化」 という二つのベクトルへと引き裂かれているように見える。 究極の 「現実」、現実の中の現実ということこそが、最大の虚構であって、そのような 「現実」 がどこかにあるという想定が、何かに対する、つまり 「現実」 に対する最後の隠蔽なのではないか。 だが、隠蔽されている 「現実」 とは何なのか? とりあえず、それを 「X」 と置いてみよう。 
  こんなふうに考えてみたらどうであろうか。 われわれは、現代社会に、一見、矛盾する二つの欲望を見たのであった。 一方には、危険性や暴力性を除去し、現実を、コーティングされた虚構のようなものに転換しようとする執拗な挑戦がある。 Xは、大きく歪んだ形でしか、認識したり、体験したりすることができないのだ。 Xに間接的に関わる二つの方法が、述べてきたような二つのベクトルとして結晶するのではないだろうか。 たとえば、ある条件の下では赤く見え、別の条件の下では青く見える対象があったとして、その対象の、それ自体としての色ということを言うことはできない。 その対象の色に対する唯一の正しい認識は、 「青くかつ赤い」 という矛盾をそのまま受け入れることだろう。 そうした矛盾した命題を結論する視差をそのまま肯定しなくてはならない。 Xも、そのようなものである。 とすれば、Xは、直接には、認識や実践に対して立ち現れることのない 「不可能なもの」 である。 
  「理想→虚構→不可能性」 という順で、規準的な反現実の反現実性の度合いは、さらに高まっているのである。 われわれが今、その入り口にいる時代は、「不可能性の時代」と呼ぶのが適切だ。 (中略) 
  不可能な 「現実X」 とは何かを、推定しうるところにきた。 「不可能性」 とは、 「他者」 のことではないか。 人は、 「他者」 を求めている。 と同時に、 「他者」 と関係することができず、 「他者」 を恐れてもいる。 求められると同時に、忌避もされているこの 「他者」 こそ、 「不可能性」 の本体ではないだろうか。 「他者」 との直接の関係を求め、 「他者」 が私のブログや日記サイトに接続してくることを求めているが、しかし、そのような 「他者」 は、一歩間違えれば、恐ろしいストーカーである。 「他者」 に愛されたいが、しかし、その愛とハラスメントとは紙一重である。 
  「他者」 抜きの 「他者」 と出会おうとすれば、こうした矛盾した要求を純化していけば、どうなるのか? その論理的な帰結は、言うまでもない。 「ひきこもり」 である。 引きこもる若者たちが拒絶しているのは、まず公的・社会的な関係だけではない。 そうではなく、あるいはそれ以上に、彼らは、私的・家族的な関係を拒否している。 彼らが、こうした関係から撤退するのは、単にそれらの関係に組み込まれているというだけで、そこに過度な攻撃性を感じるからだ。 
大澤真幸 『不可能性の時代』





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posted by Vigorous at 21:31| 社会学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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