2009年08月03日

No.0475 『現象学』

   フッサールの現象学でいう 「現象学的還元」 とはどういう思考法か。 
  いま私の目の前にリンゴがあるとする。 日常的な考え方では、こう考える。 「いま私に、丸くて、赤くて、つやつやしたものが見えるが、それはリンゴがそこにあるから、私にそう見えるのだ」と。 現象学的還元は、このごく当たり前な考えを、あえて、つまり方法的に逆転する。 つまり、 「リンゴがそこに存在するから、赤くて丸くて.....が私に見える」 と考える代わりに、 「いま私に赤くて丸くてつやつやしたものが見えている。 だから私は、今目の前にリンゴが存在しているという確信を持っている」 と。 
  「客観的事実」 を、 「主観の確信」 のあり方へと変換すること。 これは言い換えれば、われわれが持っているさまざまな 「確信の条件」 を確かめるような思考法なのである。 
  なぜこんな思考法をとるのか。 ヨーロッパでは近代科学が登場する前、カトリック正統に対抗してプロテスタントが起こり、以後長く宗教戦争が起こった。 人々は 「真の信仰」 について自分たちこそ正しいと主張しあい、150年前後にわたって殺し合った。 だが、今度はそこに、まったく別の主張が現れてきた。 自然科学的世界像である。 何より重要なのは、この時期、ヨーロッパ人は、自分たちが全身全霊を傾けて 「正しい」 と考えていた世界観がまったく間違っている可能性がある、という不可解な事実にはじめて直面したということだ。 近代科学はこの大きな衝撃を、 「主観−客観の一致」 問題という形で問題化した。 これはつまり、どのように考えれば、本当に 「主観と客観」 が一致する考えに到達できるか、言い換えれば 「真理」 に到達できるか、という問題である。 
  なぜなら、もしこの問題が解明で着なかったら、世界にいくつかの強大で強固な世界観が並立した時、その対立を克服する原理はどこにもないことになるからだ。 つまり近代哲学の 「主観−客観の一致」 問題は、強力な信念どうしの対立をいかに克服するか、という問題を意味していたのだ。 
  世界観、価値観、美意識の領域で、むしろ必ず少しずつズレがあり、決して同じにはならないことが自然なのである。 
竹田青嗣 『哲学ってなんだ』





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posted by Vigorous at 21:37| 哲学・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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