2009年07月13日

No.0455 『汎ヨーロッパ・ビクニック』

   1982年11月9日の 「ベルリンの壁」 の崩壊へと至る一連の出来事の端緒には、同年8月19日に、ハンガリーのショプロンで行われた 「汎ヨーロッパ・ピクニック」 なる企画があった。 
  もともと、ハンガリーは、東欧社会主義圏の中では、最も開放的な国であった。 そのため、とりわけ夏には、避暑のためにやってきた東ドイツ市民と西ドイツ市民が再開し、旧交をあたためる場所となっていた。 汎ヨーロッパ・ピクニックとは、ハンガリーとオーストリアの国境を開放して、ショプロンに集まってきた東ドイツ市民を、一挙に、大量に西側へ (西ドイツへ) 亡命させてしまう策略である。 ミクローシュ・ネーメト首相に率いられた、当時のハンガリー政府は、東ドイツ市民の亡命を見逃すように命令を受けていたのだ。 続々とハンガリーに集まってきた、約六万人の東ドイツ市民の越境を、ハンガリー政府は、隠密裏に支援した。 
  ハンガリー政府は、西ドイツ大使館員が、東ドイツの亡命希望者にパスポートを発給する秘密の場所を提供した。 ネーメト首相は、密かに西ドイツに渡り、当時の西ドイツ首相コールにこう告げた。 ハンガリーに不法滞在する東ドイツの人々を、何の見返りもなしに、西ドイツに出国させる、と。 コールは、この勇気ある決定に感謝し、泣き崩れたという。 
こうした大量亡命が続く中、東ドイツ国内では、民主化を求める (とりわけ移動の自由を求める) 大規模な街頭デモが繰り返された。 これによって、東ドイツのホーネッカーは失脚し、最終的には、暴動を恐れる東ドイツ政府は、 「壁」 の開放を容認せざるをえなくなったのだ。 これが、東欧の社会主義体制の崩壊の引き金となった。 
大澤真幸 『逆接の民主主義』





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