2009年06月18日

No.0432 『真理へ接近できない科学』

   リスク社会がもたらす効果は、 「知」 と 「倫理的・政治的決定」 との間の断絶があからさまなものになってしまう、ということである。 学問的な認識と実践的な決定との間には、決して埋められることのない乖離がある。 しかし近代社会は、両者の間に自然な移行や基礎づけの関係が成り立っているとの幻想によって、支えられてきた。 たとえば、特定の経済政策は、経済学的な認識によって正当化されると考えてきた。 あるいは、生死についての倫理的な決断は、医学的・生理学的な知によって支持されうると信じてきた。 だが、リスク社会は、知と倫理的・政治的決定との間にある溝を隠蔽しえないものとして露呈せざるをえない。 なぜか? 
  科学に関して、長い間、当然のごとく自明視されてきたある想定が、リスク社会では成り立たないからだ。 科学的な命題は、 「真理」 そのものではない。 「真理の候補」 、つまり仮説である。 それゆえ、当然、科学者の間には、見解の相違やばらつきがある。 だが、われわれは、十分な時間をかければ、見解の相違の幅は少しずつ小さくなり、ひとつの結論へと収束していく傾向があると信じてきた。 収束していった見解が、いわゆる 「通説」 である。 科学者共同体の見解が、このように通説へと収束していくとき、われわれは、その通説自体が未だ真理ではないにせよ、真理へと漸近しているのではないかとの確信をもつことができる。 
  だが、リスクをめぐる科学的な見解は、 「通説」 へと収束していかない。 たとえば、人間の生殖系列の遺伝子への操作が、大きな便益をもたらすのか、それとも 「人間の終焉」 にまで至る破局に連なるのか、いかなる科学的な予想も確定的ではない。 学者たちの時間をかけた討論は、通説への収束の兆しを見せるどころか、まったく逆である。 時間をかけて討論すればするほど、見解はむしろ発散していくのだ。 リスクをめぐる科学的な知の蓄積は、見解の間の分散や懸隔を拡張していく傾向がある。 このとき人は、科学の展開が、 「真理」 への接近を意味しているとの幻想を、もはや、持つことができない。 
大澤真幸 『不可能性の時代』





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posted by Vigorous at 20:40| 社会学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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