2009年05月19日

No.0409 『身体からの逃亡とその反転』

   1988年から89年にかけて四人の幼女を次々に誘拐・殺害したMは、たしかに、ビデオの熱心な収集家であったし、その書棚には、オタクが好みそうなマンガや雑誌があった。 とはいえ、そうした活動において、決して、前衛的であったわけではない。 Mの殺人事件は、発覚当時、幼女に対する性犯罪と考えられたし、判決もそのように認定している。 だが、この事件とその背景の詳細を徹底的に精査した吉岡忍の論考を読めば、これが、通常の性犯罪の範疇に収まらないことが分かる。 むしろ、吉岡の調査を読めば読むほど、われわれは、Mは、そのような犯罪を起こしそうもない、彼はそうした犯罪から遠く隔たったところにいる、彼こそは、誰にもまして、そうした犯罪を嫌悪し、忌避するはずではないか、そのように思えてくるのだ。 Mが、こうした犯罪に関与しそうもない道徳的な人物だったと言っているのではない。 Mは、この種の殺人を、生理的に受け付けないのではないか、と思えるのだ。 
  Mは、ごく幼い頃より、身体の生々しさを極度に嫌い、特に性器・陰部に関わる事柄には異常なまでの嫌悪感を示してきた。 だから、Mは性についての知識がほとんどなく、おそらく性的に不能である。 
  Mは、身体的な直接性に対して、非常に強い嫌悪感をもっている。 人間の身体の匂いを嫌がり、洗濯物が近くにあることも拒否する。 人間の身体に触れることも嫌で、相手が女性であれ、男性であれ、抱き合うことを 「気持ち悪い」 と言う。 身体的現実へのこうした嫌悪には、Mに固有な個人的な事情があったと思われる。 その事情とは、先天性の手の障害である。 彼の手首は不自由で、手の平を上に向けることができないのだ。 Mは、この障害を著しく気にしていた。 トイレでお尻を上手に拭くことができなかった。 そのため、肛門に便が残ったり、ペニスの近辺に便がくっついてしまったりする。 彼の性器への嫌悪は、自分自身の陰部への嫌悪の転移によって理解することができる。 (中略) 
  それが、やがて、他者の身体に対する猥褻な関心へと反転していくのである。 身体からの逃避が身体への過剰な欲望へと転化したのだ。 
  オタクの傾向として、身体的な活動性の低下、身体の具体性からの逃避があるが、これとまったく反対方向のベクトルも共存しているのだ。 すなわち、痛覚のような身体上の直接の感覚を活性化したり、身体の活動性を異常に高めようとするトレンドもまた若者たちの間で目立ってきている。 たとえば、ピアスのようなごく軽微の加工から、刺青、あるいは整形、こうした身体上に痛みの感覚を直接に呼び起こす、身体への多様な人為的介入のことである。 
大澤真幸 『不可能性の時代』





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posted by Vigorous at 21:54| 社会学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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