2009年04月11日

No.0377 『カントのメタフィジックス』

   「世界の始発点はあるのか、ないのか」 とか 「それ以上分割できない物質単位があるのか」 とか 「すべては必然的な因果関係に貫かれているのか、自由があるのか」といった問題は、単に論理上の錯覚問題ではない。 それはまず事実問題のように見え、しかも 「発話者の意」 とは無関係に、必ずどちらかが正しい答えでなくてはならないような問題に見える。 「神が存在するかしないか」 「人間は死んだあと、魂も死滅するか何らかの形で生き残るのか」 なども、これと同じ性質を持った問題である。 そしてこうした問題を哲学では 「形而上学 (メタフィジックス) 」 と呼んでいる。 カントはこの問題を考えつめて、この問題は決して答えの出ないといである、と断定した。 カントが 「アンチノミー (二律背反) 」 という仕方で提出した問題は、論理的な錯覚を正すことで解明するような問題ではない。 それはむしろ、この問題の決して解けないことが何を意味するのか、をわれわれに教えるようなアポリア (難問) なのである。 世界の始発点が 「ある」 という答え (A) も、 「ない」 という答え (B) も、同じ資格で可能であるということだ。 すなわち、Aの主張もBの主張も同じ権利を持っているということだ。 
  カントの言い方はつぎのことを教える。 じつは人間は、この問いについて、実際には、 「事実はどうなっていたか」 を考えているのではない。 ただ、人間の思考における可能な 「推論の方式」 を頭の中から引っぱり出してそれをならべ、どの推論方式が一番妥当そうに見えるか、と考えているにすぎない。 すると残る決定項は、考える人のフィーリングによるによるだけなのである。 
  世の中には、 「事実問題」 を一生懸命に考えているつもりで、それ以上考えても決して出てこない答えを、延々自分の方が 「正しい」 と主張しあって考え続けているということが、ひどくおびただしくある。 もしカントが提出している認識の本質の諸問題をしっかり考えれば、このような無駄な論理的対立は終焉するということである。 「イスラム教とキリスト教はどちらが正しいか」 「唯物論か観念論か」 「人間は性善か性悪か」 などなど。 
  こうしてカントは 「アンチノミー」 という難問を提示することで、古くなって使い物にならなくなっているのに、古い問題の立て方の中で生き残っている知的な権威を片づけるための、大きな原理を見出したといえる。 
竹田青嗣 『哲学ってなんだ』





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posted by Vigorous at 20:05| 哲学・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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