2009年04月09日

No.0375 『多文化主義の欺瞞性』

   原理主義と多文化主義の対立を、宗教史上の最も劇的な対立と対応づけて見ることができる。 
  厳格な律法主義を説いたユダヤ教を原理主義に対応させよう。 律法を廃止したのが、キリスト教である。 キリストが律法に対置したのが隣人愛だ。 
  あまりにも厳格で、閉塞的かつ閉鎖的に律法による正義 (原理主義) に対して、普遍的な愛の教義 (普遍的で、完全に公平な多文化主義) を置けば、少なくとも思想の水準では、問題は解決するのではないか。 そうはいかない。 つまり、 「律法による正義」 よりも 「愛の教義」 が勝っているとは、必ずしも言えない。 というのも、普遍的な愛という観念には、内在的な矛盾があるからだ。 「私は人類すべてを愛している」 という命題を考えてみれば、このことは直ちに理解できる。 この命題は、 「私は誰も愛していない」 ということと同じではないか。 あなた (たち) を愛するということは、 「あなた (たち) 」 を、私にとって圧倒的に特異的なものとして、他から区別することを前提にしているからだ 「あなた (たち) を愛している」 ということは、端的に言えば、別の誰かを憎んでいたり、無関心であるということを含んでいるのだ。 たとえば、9.11テロの犠牲者たちに同情し、共感し、さらに彼らを愛しているということは、テロリストを憎んでいるということでもあるはずだ。 多文化主義が欺瞞的なものになってしまうのは、憎悪や無関心を伴わない普遍的な愛が可能であるかのように想定しているからである。 
大澤真幸 『不可能性の時代』





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posted by Vigorous at 22:26| 指導者、政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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