2009年03月11日

No.0327 『アウグスティヌスの考えた善悪』

   アウグスティヌスは、少年時代に隣家の梨を仲間と盗んだことを振り返り、なぜ盗んだのかを問うています。 盗むことそのものを愛していたからではない。 梨の実を食べたかったからでもない。 盗みにおいて自分が愛したのは仲間と組むことだったと、アウグスティヌスは結論しています (『告白』2巻4章9節) 。 われわれの行為は何らかの目的のためになされる、目的そのものは善いものであり、悪いものは目的とはなりえない。 と考える点で、アウグスティヌスもまた古代哲学の倫理観を受け継いでいます。 目的が善いにもかかわらず、そのための行為がときとして悪いのは、相応しい求め方を逸脱しているからです。 目的を実現するために選んだことが不適切だったからなのです。 悪は我々の選択によって生じます。 
  自分で気づいた悪については告白できます。 しかし、アウグスティヌスは、今の自分の考えが絶対に正しいとか、絶対に間違っているとは言いません。 同じように他人に対しても、善悪の最終的な判断は下していません。 しかし、このことは他人に対する無関心とは違います。 善いことと悪いこととの区別ははっきりしているのです。 
  アウグスティヌスにとって、善いことは神のためにという目的をもってなされることであり、悪いことは自分のためにという目的を持ってなされることでした。 しかし、目的とはすべての行為が究極的に目指している到達点であって、行為する人の意図や、ひとつひとつの行為が実現しようとしていることではありません。 ひとつひとつの行為について、それが神のためになされているのか、自分のためになされているのかをはっきり見極めることのできる人間はいません。 人は自分の行為が目的に照らして適切であるかどうか、自分の判断は間違っていないかどうかを断言することができないのです。 されは、限られた経験しかもつことのできない人間に課せられた制約です。 自分や他人への批判や賞賛は、自他の限界を認めながら、究極の目的に向かって互いを励まし合うものでなければなりません。 これがアウグスティヌスにとっては何より大切なことでした。 
左近司祥子編 『西洋哲学の10冊』





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posted by Vigorous at 19:36 | TrackBack(0) | 哲学・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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