2009年03月03日

No.0311 『生命と物の境界的存在としての認識』

   A(神戸連続児童殺傷事件の犯人)の殺人には、表面的には合理性はない。 直接の怨念にも、何かの防衛にも関係がない。 このことは、Aにとって殺人そのものが目的だったことを示している。 しかし、ならばなぜ殺したのか?
  Aは日記の中で、女児をハンマーで殴った瞬間を次のように記す。 「ぼくは、お礼を言いたいのでこっちを向いてくださいと言いました。 そして女の子がこちらを向いた瞬間、金づちを振り下ろしました」。 この記述は、人を戦慄させるものがある。 通常、他者の顔を見ながら、その他者を殺すことは、きわめて困難だからだ。 凶悪な殺人犯といえども、他者の顔を隠したり、その顔を見ずして殺すのが一般的である。 (中略) この点に留意してから、Aの犯罪を眺めてみると、 「顔」 は、全体を貫通する主題であることに気がつく。 J君の顔 (首) は、登校してくる中学生や教師を睨みつけるかのように、校門に置かれていた。 少年の描いた 「バモイドオキ神」 は、顔と手のみから成っている。 
  Aは日記で、犯罪を 「聖なる実験」 と呼んでいる。 何を実験するのか。 「人間の壊れやすさを確かめるため」 である。 「壊れやすさ」 とは、どの程度容易に死亡するかということだ。 Aの言葉に関してただちに注目されるのは、 「壊れる」 という表現である。 人間が死ぬことを 「壊れる」 とは通常言わない。 この事実から推察できることは、Aには、人間が 「人間」 としてではなく、物に接近した何かとして現れていたのではないか、ということである。 だが、ここからただちに、Aは殺人の相手が 「物」 として把握されていたがゆえに、抵抗感もなく容易に殺してしまえたのだと説明したのでは、殺人への、抑えがたい衝動を説明することができない。 人間に関して、 「壊れる」 という語を用いたAには、殺害の対象となった人間が物に近いもの、人間なのか物なのか定まらぬ境界的であいまいなものとして実感されていた、ということは、確かだろう。 そうであればこそ、少年は実験したのである。 相手は本当は人間なのか、物なのかを確認するために。 実験においてAが賭けているのは、相手が物に過ぎないという可能性の方ではなく、相手がそれでもなお人間であるかもしれないという可能性の方なのだ。  (中略) 
  「バモイドオキ」 という神の名を推論する手掛かりがここにある。 この神の名は 「バイオ・モドキ」 のアナグラムであろう。 「バイオ」 はもちろん生命ということであり、魂があるということである。 「モドキ」 は、類似していること、似て非なること等を意味している。 そうだとすれば、これらを合成した 「バイオ・モドキ」 の神とは、生命や魂を持つような持たないようなものであること、いずれであるか微妙で境界的であること、こういったことにかかわる神だということになる。 
大澤真幸 『不可能性の時代』





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posted by Vigorous at 21:03 | TrackBack(0) | 社会学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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