2009年01月31日

No.0250 『自主性の教育』

   教育というは宿命的に、生徒に無理やり自主性を持たせるという矛盾を孕んでいる。 ほとんどの生徒は、自ら学ぼうとはしない。 生徒が自分から学びたくなる気持ちになるのを待っていたら、教育は成り立たない。 名人が授業をすれば、クラスの半数以上に学びたい気持ちを掻き立てられるかもしれないが、それでもクラス全員が学びたいという気持ちを自ら持つという状況は永遠に訪れないだろう。 自主性を持たせるためには、そして、自分で考える力をつけさせるためには、まずは押し付けが必要である。 基本的な考え方のテクニックを示し、それを見よう見まねで繰り返させ、訓練する必要がある。  (中略) 
  だが、「新しい学力観」 そして 「ゆとり教育」 の理念に基づく学校教育はむしろ、それに反対することばかりしてきたのではなかろうか。
  現在の学校教育は、イエス・ノーを明確にすることに抵抗を示す。 いろいろな考え方がある、答えは一つではないという口実のもとに、イエス・ノーを明確にすることを 「単純な二分法」 とみなして嫌う。 その結果、様々なものを灰色にし、ぼやけさせる。 曖昧であることが人間性のしるしと考えて、実は様々な事柄についての判断を保留する。 つまりは、曖昧で論点の不明確な思考を推奨していることになる。
  また現在の学校教育は、個性を大事にするという名目のもと、型どおりに考えることを否定する。 絵も読書感想文も、 「思ったとおりに書け」 というぱかりで、テクニックも論理も教えない。 いや、教えることを拒否している。 何も教えないことを、個性重視と考えているふしがある。 しかも現在の学校教育は、相変わらず目立ちたがりを嫌う。 先生たちは個性を発揮することが大事だと口にする。 だが、それと同時に、目立ちたがることを不純として嫌い、控えめで、みんなと同じでよいと考えている子どもをかわいがる。 個性重視ということは、言い換えれば、自分は他の人とは違うんだという意識を強く持つこと、つまりは、目立ちたがるということに他ならないのだが、それを理解しない。 だから先生たちは、個性的な人間を排除し、真面目で平凡な人間を大量生産してしまう。
樋口裕一 『ホンモノの思考力』





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