2008年12月10日

No.0145 『二項対立と禅の思想』

   対象がある要素を持っているかいないかという二項対立を明確にすることによって、物事と物事の差異をきちんと認識できるようになる。 たとえば、猿と人間の違いを、様々な項目に分けて、ある要素を持っているかどうかを判断する。 そうすることによって猿と人間の違いを体系的に捉えることができる。
  つまり、二項対立によって人間は意味の網目を手に入れたわけだ。 こうして現象を分析し、ある命題が真であるか偽であるかという判断もできるようになり、それを好ましいとみなすか否か、という意見をもつこともできるようになった。
  そもそも、物事を二つにきっぱり分けて考えることによって、分析ができる。 ある要素が存在するか存在しないか、真であるか偽であるか、好ましいか好ましくないかを明確にすることによって、現象を分析できる。 「分析」 とは 「ある事物を分解して、それを成立させている成分・要素・側面を明らかにすること」 (広辞苑) なのであって、要素を分けて思考することを前提にしている。  (中略)
  二項対立に基づかない思考では、そんなわけにはいかない。 二項対立に基づかない東洋的な思考を行う典型として、禅がある。 禅の精神とは、イエス・ノー、肯定・否定という二元性(二項対立)に基づかない精神のことだ。 座禅というのは、自分と対象という意識をなくし、自分を対象と同一化して、自分をなくす行為なのではあるまいか。 東洋の思想、とりわけ日本の思想は、多かれ少なかれ根本にこの禅的な思想があるといっていいだろう。 物事を二項対立で捉えない。 人間は自然と対立しているとは考えない。 人間は自然に囲まれている。 人間は他の生き物と連続した存在と捉える。 生と死、自分と他者、イエスとノーさえも連続したものと考えている。 対象を愛するということは、対象と合体することを意味する。  (中略)
  このような対象と一体化した思想で、物事を厳密に分析し、観察し、解明することは難しい。 論理的に考えることができるとは思えない。 それこそ、理解不能な「禅問答」になってしまうことは目に見えている。 対象と一体になると、対象を客観的に把握できない。 観察もできない。 二元的に思考しないので、肯定と否定を対置しない。 そうすると、議論もできない。 他者と同じような意見を持とうとするばかりで、自己主張もできない。 分析も判断もできないことになる。
  二項対立的思考が論理の基本であり、それなしには、論理的思考ができるはずがないというのは、否定できない事実なのだ。
樋口裕一 『ホンモノの思考力』





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posted by Vigorous at 21:58| 論理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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