2008年11月02日

No.0027 『《死》とは』

   仏教のような宗教は、あるいはこれを宗教的伝統と呼んでもいいのだが、古代からのインドの宗教、哲学などと同様に、再生、転生の考え方を受け容れている。こうした宗教的伝統の立場に立てば、《死》はただの《この生命》の終わり、《現世》の終わりにすぎない。この場合、《死》は衣服を着替えるほどの意味しか持たない。私自身がまとっている法衣が、破れほころび、もうどうにも用を足さなくなったとき、私はこの法衣を脱ぎ捨て、新しいもので身を包むことになる。古い法衣は捨て去られるが、私の生命は生き続ける。それと同じように、生命は肉体が滅びた後も生きつづける。その折々の肉体から離れてもなお。 (中略)
   キリスト教でいう聖霊の単一性も仏教では認めることはない。この意味においては、仏教は霊魂不在の立場に立つ。しかしながら、生あるものとしての存在自体は常にあり続ける。したがって、この肉体、この特定の生命に属するこの具体的肉体にとって、死とは変化の時の到来を告げるのみである。古い着物を脱ぎ捨て、新しい着物を身にまとうように、普遍的存在が古い肉体を捨て去り、新しい肉体に宿る節目である。
   であるならば、《死》に対する人間の対応は、恐怖とはまるで異なるものとなるはずだ。死に臨む時、自分の心から恐怖を取り払うことができるはずだ。精神的な修養を積んだ者なら、死が現実に迫れば迫るほど、心は豊かに穏やかに、それでいて心は喜びに満たされているものなのだ。
「時は来たり。若々しく、新鮮で、より可能性を秘めた肉体を、そして、新しい人生を己が手にする時が来たり」と。
 ダライ=ラマ 『死の謎を説く』





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posted by Vigorous at 01:14| 哲学・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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